女の強さとは
読みやすく、なかなか共感できる内容ではあったが、「言えば伝わることもある」という理想がドンガラガッシャーンと音を立てて崩れていく。
そして、やっぱりそうだよな、と、納得させてくれた。
あの時のアレも、その時のソレも、解決できなかったことだと分かっていたなら、私は思い悩むことを止め、諦めなければならないことを諦め、また違った今があったのかもしれない。
でもまあ、それでも私は女で、あいつらは男であることには変わりはない。
運命にたくさんの分かれ道があったところで、どの場面に遭遇しても私は私。驚きも喜びも悲しみも、同じレベルで経験したんだろうなと、勝手に思っている。
この本で一番、共感させられた一文。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
女性が一つのことに熱中する、その背景には「好き」ということが欠かせないようである。
各種学科にせよ、囲碁や将棋にしても、それを一生懸命やるのは、まず好きだからである。
こう書くと、「そんなことは、当たり前だろう」と、うなずく男性たちは多いかもしれない。
たしかに、スポーツでも勉強でも、すべて一つの事に熱中するのは、好きだからである。
しかし男はすべてそうとはかぎらない。男は多少、嫌いでも、かなり飽きていても、一つの事に熱中する事はある。
たとえば勉強だが。いささかうんざりして、教科書を見るだけでむかつく、と言いながら勉強することはある。
好き嫌いは別として、やらなければいけない、と厳しくいわれると、仕方なくそちらに目を向ける。
だが女性の場合はそうはいかない。勉強は嫌い、教科書を見るのも嫌、となったら、もはや教科書を開くことはほとんどなくなる。
この一つの事にこだわる、全うする一途さにおいて、女は男よりはるかに強く妥協性がない。
このように、女性は男性のように、嫌いだけど仕方なく、といった曖昧さはほとんどない。
男たるもの、女性の生来もっている、この集中主義はよくわきまえておくべきである。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
この、男の曖昧な気持ちのままでも何かに集中できるという心理の源、何がそうさせているのだろう?
やはり、寂しさに耐えられないからなのだろうか。
それとも逆に言えば、女よりも「好き」という気持ちさえもあいまいなものだったりするのだろうか。
私は男ではないので、ずっと分からないことなんだな。